一般社団法人 西印度諸島海島綿協会

西印度諸島海島綿協会50周年記念

理事長からのご挨拶

この度、私たち海島綿協会は2026年(令和7年)5月に設立50周年を迎えます。
この特別な節目を迎えるにあたり、まずは日頃よりご支援いただいている皆さまに心から感謝申し上げます。

当協会はカリブ海地域で産出される西印度諸島海島綿の日本市場における普及と商標管理を目的に1976年に設立されました。

設立以来、海島綿を日本市場に広めるため、私たちは尽力してまいりました。これまでの歩みを振り返ると、多くの方々のご協力とご理解があったからこそ私たちはここまで来ることができました。

設立時は、任意団体から始まり、協同組合の期間が45年、2021年には一般社団法人へと改組し、より開かれた協会として海島綿の更なる普及を促進すべくブランディング活動と模倣品対策を含む、海島綿製品のトレーサビリティ保証を行っています。

海島綿は、約500年前のコロンブスによるアメリカ到達の時代にまで遡る、豊かな歴史と高い品質を合わせ持つ重要な繊維であり、その魅力は今なお色あせることがありません。

現在は、栽培が困難であるためジャマイカにおいてのみ生産される希少な素材です。私たち協会は、この素晴らしい素材の価値を、栽培農家と共に広めていく使命を持っています。栽培農家と連携しながら、持続可能な未来を築いていくことが私たちの目標で栽培農家と共に次世代に引き継いでいく責任を感じています。

今後も、長期にわたり、透明性の高いトレーサビリティ保証を継続し、さらなるブランディング活動に挑戦し、未来の海島綿の可能性を広げてまいります。
皆さまの引き続きのご支援をお願い申し上げます。

50周年記念店頭POP

50周年テーマカラー

西印度諸島海島綿協会が設立される1年前の1975年
海島綿と深い関わりのあるイギリスの女王陛下エリザベス2世が訪日され
東京都心をオープンカーでパレードした際
白地に鮮やかな赤い千鳥格子が意匠された美しい
ワンピースをお召しになっていました
日本の国旗である「日の丸」を意識され、ファッションで敬意を表そうとのお気持ちが
込められていたと言われています
またイギリスの国花は「赤いバラ」です
両国の友好も示したかったのかもしれません

色に思いを込めるということ
海島綿のイメージとは

綿花の白、黄色い花や葉の緑
育つ大地の土の色やカリブ海のグリーン、その空の色
ナチュラルな優しい色が思い浮かびます
おおらかでもありますが、控えめで日常に溶け込み、寄り添い
場合によっては気づかれないような存在でもある
そんな色もイメージします

しかし、50周年を迎え
この50年の海島綿の歩みを考えますと
貴重な綿を絶やさないために日々を積み重ねる難しさもありました
どんな時にも諦めることなく歩み続け
そしてこれからも500年の歴史の先を歩み続け、続ける思いを込めて

情熱の赤

50/500

歩んできた50年は海島綿500年の歴史の中で1/10に過ぎないけれど
それは海島綿を未来へつなぐ50年でした


一般社団法人 西印度諸島海島綿協会

50年の歩み

1976

1976年〜1985年

英国から海島綿のバトンを引き継ぐ

1976年5月1日、海島綿に魅せられた9社の会員により、日本で「西印度諸島海島綿協会 日本支部」が誕生しました。これはイギリス以外の国として日本が世界で初めて海島綿の輸入を認められたことをきっかけに生まれたものでした。門外不出として英国王室にも愛されてきたこの特別な綿を、日本にきちんと伝えるための役割が始まったのです。

1979年には、日本が海島綿の独占買付国になり、組織も協同組合に改組されました。海島綿の品質管理基準書を作成配布するなど、品質を守りながらお客様へ大切に届ける仕組みが整いはじめました。

世の中では、ロッキード事件が話題になり、エレクトロニクスやファッションが発展したりと、大きな変化が訪れていた時代でもあります。そんな中、「本物」や「上質さ」を大切にする空気が少しずつ芽生え、海島綿は静かにその存在感を広げていきました。1985年には組合員数は35社まで増えていました。

1986

1986年〜1995年

大きく変わる世の中と海島綿

バブル景気で華やかな時代を迎えた日本では、「良いものを持ちたい」という気持ちが広がっていきました。その中で、海島綿の魅力――なめらかさや美しい光沢――が改めて見直されるようになります。一方で認知度の向上と並行して海島綿を名乗る偽物も多発するようになり、協会は法的対応のために顧問弁護士を置くようになります。

海島綿を英国から受け継いだ後も、日本は英国王室との歴史的なつながりに敬意を表し、1990年に260番手という超細番手を海島綿で紡出した際には、その糸で作られたハンカチをつくり、エジンバラ公に献上し感謝状をいただきました。

しかし、1991年にはバブルが崩壊し、世の中の空気が一変。のちに「失われた30年」と呼ばれるようになる日本経済の長期低迷が始まります。世の中では「安さ」や「効率」が求められるようになり、商品の画一化も進みましたが、海島綿のもつ“本物らしさ”や“語れる素材”としての価値に注目する人たちが、しっかりとその灯を守ってくれました。協会もまた、その思いに応えるように、じっくりと素材の魅力を伝え続けました。

1996

1996年〜2005年

再び広がる仲間と、安定供給への布石

この10年間は、バブル崩壊の影響でいったん減少していた海島綿を取り扱うブランドやメーカーが賛助会員制度の導入などをきっかけに再び増えていった時代でした。高級シャツや肌着、シーツなど、身近な暮らしの中でも海島綿を見かけることが増えていきます。組合員数も47社まで増えました。

また、インターネットが普及しはじめたことで、素材にこだわる人たちが自分で調べて選ぶ時代に。協会は展示会やセミナーを通じて、地道に海島綿の魅力を届けてきました。安い素材が増える中で、「あえて良いものを選ぶ」という心の豊かさが、少しずつ根づいていきました。

一方で協会は海島綿製品のプロモーションだけでなく、その生産面にも貢献をしてきました。90年代の初めからバルバドス以外の生産地を開拓する動きをはじめ、ジャマイカではジョイントベンチャーを、ベリーズにおいては現地法人を設立し直営農場の運営を始めます。ジャマイカのプロジェクトは形を変え、今でもカリブで唯一の産地として生産を続けています。

2006

2006年〜2015年

環境へのまなざしと、若い人材へのアプローチ

このころから、「地球にやさしい素材を選ぼう」という考え方が、世界中で広がりはじめます。海島綿は、自然に近い環境でていねいに育てられていて、栽培の背景にも安心感があります。協会では、そうした生産の姿をしっかり伝える活動に力を入れていきました。東日本大震災を経験した2011年以降、「ずっと使える、本当に良いもの」を求める人が増えたのも、この時代の特徴です。

協会はより多くの人へ海島綿の存在を知らしめるため、協会内で実施してきた海島綿製品コンペを産学共同方式とし「学生の部」を設け、将来ファッション業界に参加する人材が早い段階で海島綿素材に触れる機会を提供しました。更に2013年14年と2年連続で合同展示会Japan Creationへ出展し、業界のより広い範囲に海島綿の認知を広げていきます。

一方で、生産地では天候不順や担い手不足といった課題も見えてきました。だからこそ、協会は現地と協力しながら、安定して届けられるように支援を続けてきました。縮小していく繊維業界の中で、海島綿は“光る素材”としてあらためて注目されはじめました。

2016

2016年〜2025年

未来へつなぐ、上質な綿の物語

2016年、協会は創立40周年を迎えました。そこからの10年は、「未来へつなぐ」ことをテーマに活動を深めてきました。世界ではサステナブルやエシカルといった言葉が広がり、環境や人にやさしい素材への関心が高まるなか、海島綿はふたたび注目されるようになります。欧米の高級ブランドからの評価も高まり、「世界でいちばん上質な綿」として再び脚光を浴びています。

海島綿生産の安定化は今もって喫緊の課題であり続けています。海島綿協会は早い段階から米国の種子開発プログラムとかかわりを持ち、ついに2018年には米国における100年ぶりの海島綿の復活を果たしました。その地名から「シーアイランドコットン(=海島綿)」の名称が誕生した米国の地で、安定栽培の取り組みが実を結んでいます。また、かつて海島綿の中でも抜群の品質を誇ったV-135種の栽培に成功。品質の保持にも力を入れてきています。

海島綿協会はより開かれた海島綿を目指し、2021年に協同組合から一般社団法人に生まれ変わりました。以来50周年を迎えた今年もそれぞれ特色のある顧客層を持つ数々のブランドが海島綿を使って“素材から伝えるものづくり”に取り組んでいます。コロナ禍を通じて、「本当に大切なもの」に目を向ける人が増えた今、海島綿は新たなファンを獲得しつつ次の50年に向け歩みを進めています。

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